たっこにんにくを日本一にした男の話の最近のブログ記事

深耕

にんにくが良く育つ環境は、排水の良い、有機質に富んだ土壌です。

 

つまり、畑が乾燥した時は根に水分を与えてくれる。雨が降っても根が窒息しないようにしてくれる。そんな良い畑づくりが、”深耕と堆肥”と言える。

 

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深耕は、深く耕すこと。

生産者が汗して努力する姿がにんにくには見えるんでしょうね。

 

恩師の教え、

「人が畑を世話すると畑もまた人を世話する」という言葉が好きです。

 

 

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にんにくが大きく育ってほしい!”欲望”が肥料を多く与える。

すると、肥満??病気にも冒されやすい。

 

しっかり手間暇と汗して”土づくり”をした畑に植え付けすると、

今度は、畑がにんにくをしっかり世話してくれます。

 

その土づくり・畑作りがおろそかになってインスタント農法?が

にんにくの根が育ちにくく、にんにくの生育にも大きく影響してきます。

 

 

にんにくが育つ環境は、にんにくの根が伸び伸び育つ環境づくり

”心耕”は耕す人の”心耕”がとても肝心です。

 

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もし、田子町に畜産がなかったら、「たっこにんにく」はなかった。

 

 

一本の藁も無駄にしない!縄の切れ端も堆肥舎に運ぶ!

土づくりの理念と行動を叩き込まれた、厳しい教えがあった。

 

 

40数年前、地域複合経営・土づくりと生産活動・教育活動、たっこにんにくの源流がある。

 

 

日本一の名乗りを挙げた昭和50年頃から、多くの視察が訪れた。視察で訪れた方々に技術を隠すことはしなかった。汗して土づくりに励む意識改革は真似が出来ないだろう。

あと10年間は絶対追いつかれない!と自信があった。(^^)

 

 

プラウは錆びても心は錆びぬ!

友が語った言葉が、今でも好きだ。

 

 
















スクランブル発進!私の流儀。

スクランブル発進!

 

 私は、自分でこう呼んでいた。

 

 東京の大田市場まで延々600キロ、野菜を積んだトラックに乗って野菜と一緒に大田市場に運んでもらうのです。

 (大田市場に移転する前は、神田の市場(秋葉原))

 

 しかも、緊急に荷物(野菜)と一緒に運んでもらって市場に出かけるのですから、もちろん、ホテルには宿泊しません。

 寝るのは、市場の土間とかに新聞紙を敷いて仮眠するだけです。

 

 日々、市況には全神経を張り巡らしていますので、状況が手に取るように分かります。

 前日から朝の状況によって直ぐ判断して、市場に向かって動くのです。

 

 その日の10時頃には決断、お昼過ぎ頃までは決裁関係を処理し、野菜を積んだ最後のトラック便に載せてもらうのです。

 私が課長時代は、野菜を積載したトラックは、毎日約10台以上が京浜市場を中心に出発していたのです。

 そのため毎日が、戦争でした。

 

 トラックには、にんにくや夏秋きゅうり、夏秋とまと、だいこん、えだまめなど積載して、

 大田市場の到達時間は、概ね22時頃である。(コレには訳があるので後述する)

 市場に到着した、22時頃から翌日の2時頃までが、私の戦いなのです。

 

 心の中では、生産者は夜中も一生懸命頑張っているので、自分はそれ以上に頑張る。

 生産者が24時まで頑張ったなら、自分は、生産に負けないで2時まで頑張る!という想いで、自分の仕事に誇りがありました。

 だから、あの広い大田市場をくまなく夜中じゅう場内を駆け巡ることができるのです。

 

 午前2時ころまでは歩き通しです。

 足が棒のように痛い。

 辛い。

 もう限界・・・

 と悲鳴を上げるのが、午前2時30分頃です。

 

 それから少し仮眠して、午前4時頃からまた再び市場内を歩く始めるのです。

 もちろん仮眠は、コンクリートに新聞を敷いただけ。

 時には、セリ人の立つ鉄板の階段に新聞を敷いて、鞄を枕にして仮眠するのです。

 下着の交換は、誰もいないところでフルチンでよく着替えました。(笑)

 洗面と歯磨きは、トイレですることが多かったです。

 

なぜそこまでするの!?

 

 これには深いわけがあります。

 私のこだわり、私の流儀です。

 

 生鮮野菜・青果物を出荷する多くの産地は、市場に出荷すればそれで良い。

 あとは市況を聞いて対応する。

 明日の出荷予想をトラック会社に連絡をとって、明日の出荷準備をして、もちろん出荷報告をして、市場状況など情報収集して、その対策を練って・・・、である。

 

 しかし、私は

 「違う!」

 と。

 

 常に日本農業新聞の野菜市況欄でトップ価格をキープしていなければ気が済まないのである。

 つまり、日本一をめざして、日本一を死守する!ことへのこだわりです。

 自分の仕事には、責任と誇りがある。

 

 他産地の状態、田子の評価が、夜中にすべてが分かるからだ。

 分かるまで夜通し歩き回るのだ。

 きゅうりの、とまとの、えだまめの、だいこんの・・・

 もちろん「にんにく」もだが、現場でなければ知り得ない「もの」を必死に探し求める。

 誰も教えてはくれない。情報を盗むものだ。

 それはそれは必死だった、死にものぐるいだ。

 

 

自称、日本一の仕事人!

 一度、市場内に入れば戦場と化す。自分ではここが勝負の分かれ目である。と、発憤した。

 自分は、日本一の仕事をするぞ!

 

 東洋一のマンモス市場、大田市場には、全国の名だたる産地から連日出荷されてくる。

 そこに立ったとき、我こそ日本一になるぞ!自分を奮い立たせた。

 大型産地であったり、高品質産地であったり、北海道から九州まで、時には海外から。

 そんな、大舞台で「田子町産の野菜」が日本一をめざす。自分が日本一になる。

 

 自分は、日本一の仕事人!だと、自負していた。

 

 だから、行動、考え方、ビジョン・・・。誰にも負けないプライドと誇りをもって仕事をした。

 市場に出向いたときにはただ、

 「お願いします。」

 では、相手にされない。

 

 いつ、何が、どんな商品が、どんな状態(物語)で、どのくらい出荷されるのか。

 そして、どこに、どのような品揃えで、どのような価格で提供されるのか。

 トップブランドには、ライバル産地の状況がすべて知り得ていなければ戦にはならない。

 

 常に、ライバル産地の状態を知り、更に、一歩も二歩も先をいけるように、プライドと誇りがある。

 それには、夜通しで歩いても時間が足りない。

 そして、競りが終わって情報収集と的確な産地情報を話して、都内の店舗廻りである。

 

 歩いて、歩いて・・・であるので、新幹線にギリギリまで調査して乗ると、汗びっしょりである。

 前日に着たシャツをもって、トイレに駆け込む。

 汗臭くても良い、少し乾いていれば、着替えをする。

 新幹線は冷房が効いているので、汗びっしょり(絞れば滴るような)では、身体が冷えるので、いつもトイレに持参して着替えた。

 なので、課内などにお土産は買う時間がないので・・・間に合わせのお土産しかできなかった。

 お土産を買うために出張しているわけではないが、みんな、そうは思わなかっただろうなぁ。

 

 

生産者には直ぐ、翌日の報告会!

 市場を出るときは、農協に電話して、明日生産者に報告するから、と、時間と場所を指示しておく。

 すると、翌日には状況をみんなに知らせることが出来る。直すべき対応もできる。

 農協がすること、生産者に直して頂きたいこと、瞬時に把握して、帰りの新幹線(昔は列車)で、まとめを記録・整理した。

 そして、翌日にはしっかり生産者のみなさんに報告。農協では選果選別・・・、様々なことを修正することができる。

 

 

3日以上は天下を取らせない!

 3日以上は、他産地に天下を取らせない。

 必ず、取り戻す。

 これが、私の信念であった。

 

>>続く

 

 

 
















昭和50年 やったぞ、日本一を名乗る!

 「組合長!にんにく日本一を名乗りたいのですが、良いでしょうか?」


 昭和50年秋の頃、まだ残暑が漂う日でした。

 りんご冷蔵庫から農協事務所に帰る途中の旧有線放送事務所前付近にて、

 「組合長、”にんにく日本一”の名乗りを挙げたいのですが!よろしいでしょう か?」

 と、組合長に直訴しました。

 (その当時、若干24才の新米職員川村です。

 ここに至るまでは数々のドラマがありますが、これから少しずつ紹介して参りたいと思いま す。)

 

 

 村木満組合長は、優しそうな眼差しで、「いいよ、やんなさい!」と返事をしてくれました。
 私は、

 「品質では日本一の東京青果の折り紙つきで問題ありませんが、

  数量では、僅かの差で北海道常呂農協を抜きました。

  もしかすれば北海道から尋ねてくるかもしれませんので、その時の対応はお願いします。」

 と言うと、

 「良いよ、やんなさい!」

 と、答えてくれました。

 


 そして予想通り、確か数ヶ月後に、北海道常呂農協から、3~4名が参りました。

 その時、上長が不在だったため、農協組合長室で対応したのが、私 (若造)一人だけ。

 

 

 色々文句があるのかな?と、思いきや、様々苦労した出来事など話されていました。

 私は、日本一を名乗ったことについて、ありのままをお話ししました。

 話しを終え、玄関でお見送りをし、先方がタクシーに乗って帰った瞬間、

 

 「やった!日本一だ!」

 

 心の中で大声で叫びました。

 

 

 

 「日本一を名乗る」直訴には理由があったのです。

 私には、夢がありました。

 

 それは、「りんごで日本一になること。」

 りんごで”日本一の東京青果”で最高価格を出すこと!が、夢でした。

 目的が「りんご」から「にんにく」へ変わりましたが、遂に夢が叶ったこととなります。

 

 当時は、私は若干24才でした、新婚2年目での出来事です。

 新婚時代とは言え、町営住宅に住んでいた自宅には、連日誰かが押しかけてきていました。

 特に、故中村萬にんにく生産部会長はよく来ていました。

 確か、1週間に2~3回ほどは来ていたと思います。

 

 また、青果市場の担当者、東京青果、淀橋青果、東京中央青果など狭い住宅でしたがよく来ました。

 もちろん、生産部会の生産者もよく来ましたが、残念ながら、すでに故人となった方がほとんどです。

 

 

 

 余談ですが、歴代農協職員の自宅に押しかけて来た生産者・市場関係者の人数が一番多いは我が家ではないでしょうか。

 農協青年部の事務局も担当したこともあり、よく農業・農協談義が飛び交いました。

 連日、入り浸りの生産者もいましたが、私の奥さんが一生懸命対応してくれたこと感謝しています。

 

 

 

故中村萬初代にんにく生産部会長と取材を受けたときの写真です。

故中村萬初代にんにく生産部会長

 

 ここでは、正しい歴史認識のため、田子町農業協同組合の業務報告書を掲載することとします。

 昭和50年度事業報告書の「にんにく」の中に、名実ともに日本一の記載があります。

 故小笠原弘参事は、「歴史を正しく伝えたい」という意識がありましたので、

 農協業務報告書ではしっかり掲載されました。

 

 しかし残念ながら、今まで、よく誤った掲載がされているのを見かけました。

 多分、当時担当した方々が、

 「自分の手柄」

 「自分がやった」

 ということにしたかったと思います。

 しかし、歴史は正しく伝えなければならないと思います。

 

第28回通常聡明資料

 

にんにくの報告には、名実ともに日本一の記載があります。

 

昭和50年度事業報告書

 

また、にんにく生産部会の資料でも、日本一を喜ぶ表紙です。

第7回通常総会表紙

 

 

 

>>続く

 

 
















昭和48年 東京青果へ初出荷

りんごの片隅での作業

 当時「にんにく」は、りんご冷蔵庫の片隅で作業をしていました。

 

 出荷先は、りんごの取引市場である、

 

  • 千葉東葛青果
  • 横浜金港青果
  • 千住青果

 

 が主でした。

 農協全体の取扱高で見れば、にんにくは種子販売額が全体を占めており、市場に出回る量が少なかったのです。

 (にんにくとの出会い!参照)

 

 それが、突然市場に出回る数量が増大したことから、新たな販売の道を拓かなければなりません。

 今までの販売方法では通用しませんでした。

 

 そこに、にんにく担当と言う白羽の矢が立ったのですから、チャンス到来です!

 

 東京青果で日本一になりたい!

 

 いう封印していた夢の実現が突如として現れました。

 

 りんごがにんにくに変わっただけだ、とにかく自分の意志で東京青果に出荷したい。

 新しい販売の道を歩むことにしました。

 

 東京青果へのルートは、経済連を経由してスタートしました。

 それ以前は、りんご同様の個選出荷でした。

 個人個人の屋号が目印なのです。

 ですので、個人個人の市場での売値が違います。

 

 しかし、このような出荷形態では対応できないことから、

「個選出荷から共選出荷へ」

 の歴史的な第一歩を踏み出すことになります。

 

 運命的な人との出会いもありました。

 東京青果の担当者笹田寛明氏との出会いがそれでした。

 また、経済連手塚氏との出会いもありました。

 

 そして昭和48年、初めて東京青果に出荷を始めました。

 ここでやっと、「夢の実現に向かって」一歩道を拓きました。

 

>>続く
















昭和48年 品種の統一を決断&厳しい系統選抜

品種の統一を決断&厳しい系統選抜

 にんにく生産部会が結成されて大きな決断をした。

  それは、品種の統一と系統選抜である。

 

 にんにくの品種はホワイト種とピンク種が栽培され、

 ホワイト種でも福地ホワイト種と岩木ホワイトなど栽培された。

 

 そこで、

 

  •  病気に強くて栽培し易いピンク種を残すか、
  •  品質は良いが病気に弱そうなホワイト種に統一するか

 

 が議論された。

 

 生産者の中には、どうしてもピンク種を残されないのか?などの要望もあったが、

 将来的に品質を最優先した決断であった。

 

 

徹底した系統選抜

 福地ホワイト種の種子用向けを徹底して系統選抜した。

 

 まだ、新米職員でしたが、当時りんご冷蔵庫の下屋で、

 故田川正にんにく生産部会副部会長が中心となって、生産者が運んでくる種子向けの出荷品を厳しく検査した。

 

 種子用向けは高価格で手取りが多いので、誰でも種子用向けとして販売したいのです。

 出荷した生産者一人一人に、

 

 「お前の種は・・・こうだから種として残されない、全部市場に出せ!」

 「この種は良い。」

 

 と、徹底して厳選した。

 今では想像かつかないほどの厳しい対応だ。

 

 だから、 田子には良い種だけが揃って栽培されることになる。

 これが後に、にんにく戦国時代を勝ち抜き、全国の市場から

 「田子のにんにくは違う!」

 と、言わしめた礎である。

 

 生産活動と教育活動の理念とビジョン

 しっかり確実に動き始めた。

 

>>続く
















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